■裁判所職員のミスについて
裁判所職員から連絡が来ました。
「申請書添付の印紙は300円でいいところ、450円貼ってあるのですが150円は放棄してもらってもいいですか」
とのこと。
その連絡の前日に電話で問い合わせて450円だと回答を得たからその分を、でも貼らずに印紙を申請書と送付書と一緒に同封して郵送しました。
その旨を伝えると、「こちらでは受け取ったらすぐに印紙は貼る手続になっています(貼ってあるから返せない)」とのこと。
う~ん・・・ただでさえ自分のミス(事件を勘違いしていたらしい)のくせに、それをこちらに負担しろだなんて納得できないんですが。
納得できなかったのでただのそちらのミスでしょう?と責任の所在を明らかにしたら「では150円返還すればよろしいんですね!」とキレられました。
この場合、法律事務所としては裁判所には逆らわない方が良いのでしょうか。
150円が惜しかったわけではなく、理不尽さを覚えました。
9/19 14:35 ↑ そうなんですよね。 以前、ぶち切れて「次回につきまして...
↑
そうなんですよね。
以前、ぶち切れて「次回につきましては○○について遺漏なきようお願いいたします。」って上申書を提出したことがあります。
記録に綴じますからね。
9/19 14:50 弁護士先生という職業に就いている人間の中には、他人の些細...
弁護士先生という職業に就いている人間の中には、他人の些細な間違いを鬼の首でも取ったようにあげつらって狭矮な自尊心を充足させるのが生き甲斐のようになっている器の小さい者が多い。
9/19 15:19 まさに!書記官のミスで決定文に誤りがあり、更正を依頼した...
まさに!書記官のミスで決定文に誤りがあり、更正を依頼したところ、それなら送達用の郵券を送れ(しかもこちら側と相手方側と両方)と、いけしゃあしゃあと言われたことがありました。
そっちのミスなのに、こっちがその負担をしないといけないなんて道理があるかと怒ったところ(もちろん弁護士が)、そのときは、結局、訂正印で対応することになりました。それはそれで、原本をもって裁判所に出向かないといけないという手間は発生しますが。
金額の多寡ではなく、筋の問題と思います。そこを手間や時間とも照らしてどう処理するか、何を優先するかは、人(弁護士)によって異なるとは思いますが。
ちなみにうちは、裁判所から多少面倒な事務所と思われている可能性はありますが、別に嫌われているわけでも不利な扱いを受けてるわけでもないと思います。裁判所が、ここの事務所の分は特に慎重にやらなければと思ってくれてるならむしろ望むところです。極端に言えば、クレームは投資みたいなものだと思います。もっともそう出るに当たっては、無論、こちら側もできうる限りミスだの期限遅れだのをしないようにしてます。こっちがミス連発しているようでは、相手に文句は言えないですからね。
9/20 16:42 うちなんか更正決定正本が間違っていて、さらに更正決定を申...
うちなんか更正決定正本が間違っていて、さらに更正決定を申請したことありますよ。
最近も、1つの事件で2つ判決が出たのですが、2つとも間違っていました。
ほんと笑えないです。
時間と郵券と印紙の無駄です。
9/20 16:47 人間である以上、失敗は必ず発生する。 いちいち目くじらを...
人間である以上、失敗は必ず発生する。
いちいち目くじらを立てない寛容さが必要。
9/20 17:06 気持ちは分かる気がしますが、裁判所は、ある意味、オンリー...
気持ちは分かる気がしますが、裁判所は、ある意味、オンリーワンなので、他のところに持って行くわけにもいかないです。民間だとこういうことが1回あると別のところにしたりしますが、どうしようもないようです。
9/20 17:37 はく様
理解いたしました。
裁判所に対しては、憲法9条の精神ではなく、戦いを仕掛ける姿勢で行くべきだということなのですね。
9/20 17:41 「一度、大阪地裁でミスされたから、京都地裁に持ってきまし...
「一度、大阪地裁でミスされたから、京都地裁に持ってきました」「ハイ!わかりました」とは「無い、無い、無い」だし
ないかな?
独立行政法人大阪地方裁判所とか
日本裁判所株式会社とか
9/20 19:02 HAKU様
HAKU様のユーモアのセンスは素晴らしいです。
9/24 10:54 はく、長文、余談ですが、 あの、9条を記載する。語る際に...
はく、長文、余談ですが、
あの、9条を記載する。語る際には、その精神については、『国家は国民に平和の内に生存することを保障します』と言うことが大事になります。
「恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」
9条はこれを立体の社会に具体化したものです。
言論の自由、恐怖から免れる自由、欠乏から免れる自由、信仰の自由等、基本的人権はその享受のためには戦時下にあっては、それは不可能になるので、必然、平和な社会に生存していることが前提になります。そして、基本的人権、国民主権を保障することは、必然、平和な社会に生きていることが必要になるので、9条は国にそれ(その保障)とその方法を求めたものになります(だから記載の位置が国民主権の直前にあります)。
およそ戦争に侵略戦争とそれ以外の正義の戦争と言うものを考えるときに、どのような戦争も「これからA国、国民の生命と財産を略奪に行きます」と言って開戦する国も無いので、何かしら、大義名分を作成、解釈等して、無理やりに、でっち上げても開戦しているのが歴史の示すところでしょうか?その意味で侵略戦争とそれ以外の戦争を線引き、区別は合理性に欠けるものと言えると思います(およそ戦争のほぼ全部が侵略戦争あるいは「正義」の戦争と言える)。
で、国民の生命財産を他国の侵略から守るため、その従来からの一般的方法は、国民を徴兵して、国防予算を組んで、兵器を購入して、軍隊を組織して戦力を保持する。ことによっていました。しかしながら、その方法は、はたして、平和を維持できたか?と言うと結局、戦争を誘因こそすれ、必ずしも平和な内に自国民を生存させることが出来なかったです。で、それで、従来からの方法から、決別して、国に戦力の保持を許さない。としました。それで、従来からの考えでは不足する国防力を補う方法として、新しく「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」と言う方法を取るように言っています。
この、一見、抽象的なその文言は具体的には、国際連合、を基軸にした世界国家を言っています。しかし従来からの考えでは、本当にそれで大丈夫なのかと心配もあるのだけれど、それに掛けると『決意』したのです。(日本も世界国家の一員として参加して、中国、南北朝鮮、ソ連等と、とともに)その国際社会に名誉ある地位を占めるのですから、そのどうかな?と言う方法が世界から尊敬を集め、先駆者的なことに繋がると信じるのです。
「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」、が大事でしょうね。言い換えると人間そのものを相互に信頼することです。それは戦うこと、とは違う。ですので、制定の当時と本当に異なるのは、国際連合のできてから何年かの歴史的な国連の評価を下せる部分があるはずです。ので、その役割の果たせたのか、どうか?の評価如何等での是非で、改悪派も護憲派も議論がされるべきでしょうね。それ以外の諸点だとポイントがずれると思います。
平和の内に生存を保障することは不変と思う。そこは変える必要が無い。